1年のおしまいに、いまや戦前を生きるわが教室のA君たちに、
七尾旅人の「兵士A]を贈ろう。
いま静かに忍び寄りつつある戦争の最初の戦死者A君の物語を。
文字で書かれているものばかりが文学ではなく、
難解な言葉で語られるものばかりが思想なのでもなく、
いまみずからが生きる世界へのどんなに小さな問いを手放すことなく、
みずからが生きるべき明日の世界を、みずからの言葉で考え抜く、
明日の世界をみずからの声で呼び寄せる、
そんな想像力を持つ者を、文学する者、思想する者と呼ぼう。
詩人と呼ぼう。
けっして兵士Aの想像力を手放さない君たちでありますように。
さらに問い2つ。
「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためでもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」 スピノザ
問題は「詩人として住まうのか、それとも人殺しとして住まうのか」という問いの形をとるのだ。 ドゥルーズ=ガタリ
そうさ、A君、君たちの言うとおりだ、
すべての時間を詩人として生きることは難しかろう。
でも、たとえ、ほんの一瞬でも、詩人として生きる時間を君たちひとりひとりの人生の時間のうちに持てるなら、
この世界はずいぶんと違うものになるのではないか。
こぶしを振り上げて闘わなくとも、静かに詩人の時間を持つ、それだけでわたしたちはこの世界を少しずつ、少しずつ、描きかえていくことができるのではないか。
誰かのために戦うのではなく、
自分のために闘う、そんな詩人の時間を、
君自身のために、そしてこの世界のために。
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水野 崇 (火曜日, 29 1月 2019 23:54)
1月に3週間、沖縄島、石垣島、宮古島、沖縄島、伊江島に古くからのともだち、新しいひとたちをたずねてきました。 「誰かのためにたたかうのではなく、自分のためにたたかう、そんな詩人の時間を、君自身のために、そしてこの世界のために。」ということばは、すううとわたしの気持ちにはいってきました。