学習院大学 後期文学演習第10回

金時鐘の日本語破壊/創造を確かめるために、

鄭芝溶(チョン・ジヨン)の詩『고향 (故郷)』の翻訳を読み比べる。

 

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『ふるさと』 訳:金素雲

ふるさとにかへり来て/ふるさとの あくがれわびし。

雛いだく野雉はあれど/ホトトギス すずろに啼けど、

ふるさとは こころに失せて/はるかなる港に 雲ぞ流るる。

けふまた山の端に ひとり佇めば/花一つ あえかに笑まひ、

かのころの草笛 いまは鳴らず/うらぶれしくちびるに あぢきなや

ふるさとにかへり来たれど/ふるさとの空のみ蒼し、空のみ蒼し

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『故郷』 訳:金時鐘

故郷に 故郷に 帰ってきても/思い焦がれた故郷はなくなっていて

山雉 卵をいだき/呼子鳥わが季節を謳ってはいても

心は自分の故郷に抱かれることなく/遠い港へと浮いていく雲。

今日も山山の端にひとり登れば/白い小花人なつかしげに笑い、

幼い頃の草笛いまはひびかず/干からびた唇に苦みが伝う。

故郷に 故郷に 帰ってきても/思い焦がれた空のみ いや青く高まっていて。

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翻訳という作業を通して、ふるさとにまとわりつく日本語の「抒情」を考える。

戦前の、金素雲の、見事に日本語の抒情に移し変えて謳われた「ふるさと」、戦後の、金時鐘の、日本語の抒情から「故郷」を取り返そうとする試み。

さらに、翻訳をとおして日本語を破壊する/創造する、ということを考える。

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「알수 없어요」 韓龍雲

바람도 없는 공중에 垂直의波紋을 내이며 고요히 멀어지는 오동잎은 누구의 발자취입니까.

기리한 장마 끝에 서풍에 몰려가는 무서운 검은 구름의 터진 틈으로 언뜻 언뜻 보이는 푸른 하늘은 누구의 얼굴입니까.

꽃도 없는 깊은 나무에 푸른 이끼를 거쳐서 엿塔 위의 고요히 하늘을 스치는 알수 없는 향기는 누구의 입김입니까.

근원은 알지도 못할 곳에서 나서 돌뿌리를 울리고 가늘게 흐르는 작은 시내는 굼이굼이 누구의 노래입니까.

연꽃 같은 발꿈치로 가이 없는 바다를 밟고 옥같은 손으로 끝없는 하늘을 만지면서 멀어지는 달을 곱게 단장하는 저녁 놀은 누구의 詩입니까.

타고 남은 재가 다시 기름이 됩니다.그칠 줄을 모르고 타는 나의 가슴은 누구의 밤을 지키는 약한 등불입니까.

(1925年刊『ニムの沈黙』より)

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この詩を金素雲が翻訳したならば……、

「桐の葉」 

風のない空から 垂直に波紋を描いては静かに舞ひ散る桐の葉――、あれは誰の跫でせう。

霖雨の霽れ間を 西風に吹き追はれる黒雲の崩れた隙間から ちらりとのぞいた蒼い空――、あれは誰の瞳でせう。

花もない大木の 苔古りた肌のあたりに 仄かにこもるえいはれぬ香り――、あれは誰の息吹きでせう。

源を知る人もない遠い山あひから流れては 河床の小石転ばすせせらぎの音――、あれは誰の歌声でせう。

蓮の踵で涯しない海を踏み 紅玉の掌で西空を撫でさする落日の粧い 遠茜――、あれは誰の詩でせう。

燃えくづれ 燃えつきては またしても炎ゆらぐ 消ゆる日のない心の嘆き――、これは誰の夜を護る か細い灯でせう。

(1940年刊『乳色の雲』、のちに1954年岩波文庫『朝鮮詩集』 より)

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同じ詩を金時鐘が翻訳したならば……、

「知りようがないのです」

風もない空のなかに垂直に波紋を押し出しながら 静かに落ちている桐の葉はどなたの足跡なのですか。

退屈な霖雨の果てで西風に追われている こわい黒雲の割れ目から ちらっちらっと見える蒼い空はどなたの顔なのですか。

花もない大木の青い苔越しに見ゆる塔の上のひそかな空をかすめるあのえもいしれぬ香りは どなたの息吹きなのですか。

源は知りようもないところから生まれ出て角ばった石を鳴らしつ細く流れるせせらぎは どなたの歌なのですか。

蓮の花のような踵で涯しない海を踏みしめ 玉のような手で果てもない空を撫でながら落ちていく日を粧わすあの夕暮れの茜はどなたの詩なのですか。

燃え残った灰がまた油ともなります。止むことなく燃えている私の胸はどなたの夜を護るか細い灯なのですか。

(2007年刊『再訳 朝鮮詩集』より)

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同じ詩を安宇植が翻訳したならば……、

「わかりかねます」

風もない空に 垂直の波紋を描きつつひっそりと舞い降りる梧桐の葉―― あれはだれの足跡でしょう。

鬱陶しい長雨の霽れ間を 西風に吹きつけられる黒雲の隙間から ちらりとのぞいた蒼い空―― あれはだれの顔でしょう。

花とてない大木の 苔むしたる肌からでて古い塔のうえの静かな空をよぎるえもいわれぬ薫り―― あれはだれの息吹きでしょう。

源を知るすべもない遠い山間から流れでて 川床の小石を転ばせるせせらぎの音―― あれはだれの歌声でしょう。

蓮の踵で果てしない海原を踏み 紅玉の掌で西の空を撫でさする落日の粧い 茜色の空―― あれはだれの詩でしょう。

燃え残り 燃えつきるともなお揺らぐ炎 消ゆることなく燃えるわが心―― それはだれの夜を護る かぼそい灯でしょう。

(1999年刊『ニムの沈黙』より)

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植民地朝鮮で紡がれた詩を日本語に翻訳した訳詩3編。それぞれの訳者の、日本と日本語、歴史と時代と世界、そして自分自身に対する向き合い方を読む。四方田犬彦『翻訳と雑神』に教えられ、考えさせられつつ。

 

四方田さんがベンヤミンのエッセイ『翻訳者の使命』から引き出してくるベンヤミンの翻訳観についても思いをめぐらす。

「翻訳とは具体的にどのような行為であるのか。ベンヤミンによればそれは「諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向Intentionの総体」である「純粋言語」に到達することを目指して、外国語を通して自国語に激しい揺さぶりをかけることであり、「異質な言語の内部に呪縛されているあの純粋言語をみずからの言語のなかで救済すること」」。

「翻訳者の使命とは、原文の意味を忠実に再現し伝達することにあるのではなく、純粋言語という巨大な観念な前にして、原作と翻訳とが「ひとつの大いなる言語の破片」であることを読む者に覚醒させること」。

これは翻訳論である以上に表現論なのだろうと思う。原作であれ翻訳であれ、なんらかの表現を読む者もまた、その表現を読み取るみずからの言語が完全ならざる言語の破片に過ぎないことを噛み締めつつ、今ここにない表現、余白のなかに潜む言葉を探るほかないのであろうし、そこにこそ表現の可能性も醍醐味もあるのではなかろうか。